モノクロな日々

社会に出てしまってから放置されているブログ。わたしも世間から放置されている・・・。

社会に羽ばたこうとする人物の成長録(?)。目下のところ、就職活動や公務員試験勉強の様子を書き記していく予定です。

大学院生というおとな

大学院生というのは、社会人と同じだけの心積もりで生活を営まねばならないというのがわたしの考えである。

大学と大学院とは何が違うのだろうか。
日本の――とりわけ首都圏の現状はおおよそ“大学へは結構な割合の人口が進学するが、大学院まで進学するのは一握り”といったところであろう。
これを雑な近似でモデル化すれば、“大学進学は贅沢ではないが、大学院進学には相応の覚悟が必要な社会”と言える。

すると、大学生だからといって、学問への高い情熱が必須とまでは要求されない。
卒業に向けた単位取得のための表面的な勉強しかしていなくても、それさえしているのであったら特に問題はない。

もちろん、一昔前であれば大学(学部)への進学も十分な贅沢であったのかもしれない。
しかし時代の移り変わりの速さを考えれば、その時代の感性で今の社会を考えるのは妥当であるまい。
今の日本において、大学進学を責任の重い選択と見なす必要はない。

(社会の実態そのものに対し苦言を呈すとすれば、思考停止に大学進学を決定する世の中がおかしいとは思う。本来、大学への進学は真摯な学問研究を行いたい者のみがすべきであり、職業的な能力を養いたい人は専門学校へ進み、専門能力を要さない業界で働きたい人は高校卒業後にすぐさま就職し、そのいずれもしたくない人は出家して自給自足の生活を営む(国民の義務を果たしているかは疑問だが)、といように棲み分けるのが理想と考える。大学人気の現状には首を傾げるところだ。閑話休題。)

しかし大学院生は学部生とは事情が異なる。
多くの同い年が社会で働き始め、親元でにせよ独り暮らしでにせよ生計を営んでいる一方で、自活からはほど遠い生活を送っているのが院生である。

それが問題だなどということではない。
しかし世間からずれた選択をした以上は、そこで為すべき課題には真摯に取り組み、「社会人」を自称しても恥ずかしくないだけの研究活動を果たすべきであろう。

研究室によっては、院生が取り組む課題も「仕事」と呼ばれることがある
この呼称は、院生自身が肝に銘じなければならない意気込みを表しているのではないだろうか。